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  講演&瞑想会 実施報告 in 伊勢  
 

あるがままを受け入れ、「今、ここ」に生きる
〜日常生活に応用できる瞑想法〜

 
   

講師:日本人僧侶 プラユキ・ナラテボー氏
日時:2009年12月23日(水・祝) 13時〜17時
     (12時半:開場/13時〜14時半:講演/14時半〜16時:瞑想を学び実践
     /16時〜17時:質問&歓談&参加者交流/休憩は適宜)
場所:「私には夢がある」伊勢オフィス・畳の間→地図
     →JR&近鉄「伊勢市駅」から車で15分。駅からの送迎あり。詳しくは申込後。
     →住所:三重県伊勢市大倉町1553−96
     →電話:0596-64-8166
主催:有限会社 私には夢がある→詳細を見る
費用:一般3,000円、学生1,000円 (税込・当日払)
申込:終了しました。

 

 

講師:プラユキ・ナラテボー氏 Profile

 
   

本名、坂本秀幸。1962年、埼玉県生まれ、現在46歳。タイ・スカトー寺副住職。異国の地・タイの山寺で出家して仏道修行に励むこと21年。黄色の僧衣まとい、ブッダの道を歩む。ブッダの道は経典の中だけではなく、日々の瞑想に真髄がある。その瞑想を学ぼうと、日本からわざわざタイの山奥の寺を訪れる日本人は数知れない。

タイは上座仏教という出家仏教。出家した僧侶が悟りの境地に達する手法として、瞑想が用いられる。そういう意味でプラユキ氏は、瞑想歴21年、自分の心と付き合う達人といえる。「今、ここに、確かにいる」ということを大事にする「気づきの瞑想」は、あらゆる種類の瞑想の土台となり、日常生活にも取り入れやすい瞑想法である。

タイに行くまでの経緯は、上智大学卒業後、タイのチュラロンコン大学 大学院に留学したことから。それまでも発展途上国をよくしようとボランティアやNGO活動に励んでいて、タイの僧侶が農村開発を行っている姿に衝撃を受ける。机上の学問に飽き足らず、1年後の1988年、瞑想指導者として有名なカムキエン僧のもとにて出家。以後、自ら村人と ともに物心両面の幸せを目指し、東北タイのチャイヤプーム県スカトー寺の僧侶として活躍することになる。

タイ大使館主催のソンクラーン祭り(タイの正月を祝う祭)に招聘されたり、在日タイ人の支援活動にも携わる。 著書に『気づきの瞑想を生きる』、監訳本に『「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方』(ともに佼成出版社)がある。

プラユキ・ナラテボーという名は、「プラ」はタイ語で僧、「ユキ」は日本名の秀幸より、「ナラ」はパーリ語で男の人、「テボー」は天使・神といった意味を表す。

 

 

内容

 
 

<講演の部>
●そもそも仏教って何? タイ仏教って何? 瞑想って何?
●心の苦しみはなぜ生じるのか、どのようにすれば逃れられるのか
●心を今にとどめる方法とは
●プラユキさんのタイでの日々瞑想の暮らしを紹介

<瞑想の部>
●「今、ここ」の気づきの瞑想法のやり方説明
●実際に瞑想を体験
●瞑想のエッセンス、注意点、日常への活かし方など

 

 

参加者の感想

 
 

■プラユキさんの講演会、ありがとうございました。お話しを伺って、いかに自分が焦りに捕われていたかを感じました。“今、ここ“ なんですね。そう思うと自分の身体を粗末にして申し訳なかったと反省しました。そして一つ一つを大事にして行こうと思いました。プラユキさんはとても温かいお方で、森林のようでした。お言葉通り、私達の話しを傾聴して下さるお姿は、言葉では表現仕切れない雰囲気を感じました。

自分は無宗教だから、仏教なんて敷居が高い、と思っていました。でも違いました。自分の身近なもの、まさに生き方そのものなのですね。早速『手塚治虫ブッタ全集』を購入しました。 できる所から勉強して行きたいと思います。 感想は言葉では伝え切れません。でも自分の中に深く残る、素晴らしい一日でした。プラユキさんがまた帰国される時は、是非ともまた講演会をして頂きたいです。宜しくお願い致します。(M.N)

■プラユキさんの本を熟読され、瞑想の知識・経験共に高い方が多く参加されていた中、私はかなり軽い気持ちで参加いたしました。「一度、瞑想というものの手解きをきちんと受けてみたいと思っていたけれど、色々あるし、怪しいのも困るし、どれがいいかわからなし…」と思っていたところ、夢あるからのメールで「プラユキさんの講演会がある」とのお知らせ。清華さんのブログでタイでの瞑想体験の様子を読んでいたこともあり、清華さんのお墨付きである信頼と、また伊勢に行こうと思っていたタイミングだったため、迷わず参加を決めました。けれど「仏教で瞑想なら禅寺系かと思ってたけど、なぜにタイのお寺??しかも、タイのお坊様だけど、日本人??」と、ハテナ?がいっぱいなまま、「まあ、まずは参加してみよう」というスタンスでした。
 
軽い参加者の自己紹介の後、プラユキさんのお話が始まると、私の中の「仏教=辛い、無常、滅私・お坊様=ストイック、無表情、近寄りがたい」といったイメージは、大きな驚きと共に完全に打ち崩されました。プラユキさんは、仏教とは、私たちが幸せに、やすらかに生きるための実用的な方法を教えてくれるものであり、悟りを開くことを目的としていないことを、表情豊かに、ときに大きく手や体を使ったゼスチャーと、なんとも形容しがたいやわらかな響きの声で、時折ジョークも交えながら、情熱を持って教えてくださいました。「お坊様って、こんなに人間的なの!?」と驚いてしまうほど、プラユキさんは、遠く上の方から教えを説くのではなく、私たちの手の届く横にいて、私たちが使う言葉で対話してくださいます。

また、プラユキさんは、感覚を表現される時に多くの擬音語を使われますが、特にそんな時、プラユキさんの声を聞きながらお顔を拝見していると、プラユキさんの周りにお花畑が見えるようなイメージがあり、それだけでもとても幸せな気持に包まれました。
 
プラユキさんの思いがいっぱい詰まった講演の後は、いよいよ瞑想です。まずは、一般的な集中瞑想をした後、いよいよ気づきの瞑想、ヴィッパサナー瞑想です。しかしながら、プラユキさんのやわらかな声を聞いていたらついウトウト・・・。途中完全に意識は飛んでいました(スミマセン)。でも、プラユキさんから「眠ったということは、リラックスしてるってことですから、いいんですよ〜」とのやさしいお言葉。本当に、決して否定せず、すべてを受け止めてくださるプラユキさんの心を感じられました。気づきの瞑想は、なかなかに急には感覚を「これ!」という感じで掴めるものではありませんでしたが、瞑想の超初心者の私でも、自然と心が静まり、心がぐらつく感じが治まるのが感じられました。
 
どんなにガードが固い人も、きっと知らず知らずにすべてを預けてしまうような、慈愛に満ちたプラユキさんにお会いできただけでも、とても素敵な時間でした。日本人にこんな素敵なお坊様がいらっしゃること、とても素晴らしいことと思います。(R.T)

■自由闊達、天衣無縫なプラユキさんのお姿に人はこんなにも自由になれるのかと励まされる思いです。百聞は一見に如かずといいますが本の理解がさらに深まりました。今後、人間関係などで悩んだ時はプラユキさんのおっしゃっていたように自分の限界を越える機会と前向きにとらえるようにできたらいいですね。これからも出来るだけ瞑想を続け仏教を学びたいと思います。和田さん御夫妻には大変お世話になり、ありがとうございました。またいつか御縁がありますように。(S.E)

■先日は、プラユキさんの穏やかなほほえみと、とってもチャーミングなお人柄に癒された一日でした。失礼ですが「かわいいーっ!!!」と何度も思ってしまい、すっかりファンになってしまいました。

お話がまたすばらしく、「自分の心の動きや感じていることに気づく力」「その経路、パターンのような物を理解できる智恵」を磨き、「今、ここ」に意識を集中して生きることで、苦しみから少し解放されることができる という風に理解しました。

プラユキさんは終始にこやかに「仏陀はこういう風におっしゃってたんですよ〜」と心をこめてお話して下さったので、あまり詳しくない私の心にもすっと入ってきました。難しい理論や厳しい修行だけではなく、仏陀の教えというのはとても実務的で、私たちが苦しみから少しでも解き放たれるために「こういう方法はどうですか?」という現実的なアプローチを教えて下さっているんだと感じました。私たちの質問にも、お料理や身近にある人間関係の例をあげてとてもわかりやすく答えてくださいました。

会に参加させていただいて、日にちが経つほどにプラユキさんのお話をおもいだして、あらためて、凄いなあと感じています。また機会があったらお話を聴きたいです!(K.K)

 

 

プラユキさんの著書やお話での言葉を一部紹介

 
   

●「安定した気持ちで全体のプロセスを体感的に受容し、理解を深めていく」ということの重要性。これはそっくりそのまま瞑想行の核心でもあり、また、心を癒し、成長させていくために必要とされる重要な要素です。

●私たちが「過去」や「未来」と称している時間というものは実はすべて今ここの思考作業によって瞬時瞬時に形成される心理的創造物ということなのですね。それは決して自分から離れたどこか別な所にあるわけではないのです。過去の後悔や恨みつらみも、また、未来の心配や不安も、すべて今ここでの心の中のおしゃべりによる創造物です。ですからそれに気づいて今ここでそのおしゃべりを止めれば、その瞬間に後悔や不安も消失します。誰でもが今この瞬間に、どこにも行かずに過去や未来の苦しみを軽減させたり、滅したりできるわけです。

●「これからの時代は智慧と慈悲が調和し連動した平和運動、すなわち「気づきや智慧を通して自身の内面の物語やイメージを理解し、自己との平和的な関係をしっかりと築き、その上で一個人の心の平和に完結してしまうことなく、豊かな対話を通して人々へ愛や慈悲を蒔き広めていく」。きっとそんなスタイルの平和づくりが求められてくるのではないかと思います。

●「智慧」とは、「あらゆるものを“よき縁となす”こと」。もうひとつの核である「慈悲」についても「縁」という言葉を用いれば、「あらゆるものの“よき縁となる”こと」と言い表せるのではないかと思います。

・・・・・・以上は2005年の講演録より抜粋。→詳細を見る

 

 

毎日新聞(2009年10月09日)の記事より抜粋

 
 

「プラユキ・ナラテボーさん タイで出家した日本人僧」

タイ・バンコクの北東350キロ、深い森の中にあるスカトー寺 で修行して21年。悩みを抱えた日本人の来訪が相次いでいる。相談体験を織り込んだ自叙伝 「『気づきの瞑想(めいそう)』を生きる」(佼成出版社)を8月に出版した。

学生時代、障害者や難民の支援活動に参加するが、人間関係に行き詰まる。そんな時、仏教の教えを基に社会問題に積極的に取り組むタイの僧と出会った。タイに留学し、「3カ月のつもり」で出家した。現在、寺の副住職。

毎日、午前4時から読経し、その後、地元の村で托鉢(たくはつ)。道端で手を合わせて待つ子どもやお年寄り。湯気の立ち上るご飯が次々と布施される。村中を走り回る犬や鶏。命が満ちあふれる。

この10年、約300人の日本人が相談に訪れた。何度も自殺を図った人もいる。寺に泊めて、何日も話を聞く。托鉢に連れて行き、笑顔いっぱいの村人と接してもらう。

「今、日本では人と人のつながりが失われ、孤独になりがち。1人でこもれば妄想が膨らむ。思考が暴走しやすくなっている」と分析する。

「仏陀(ぶっだ)は自らの体験で実証された。苦しみはどこからくるのか洞察し、しっかりと対応していけば、苦しみはなくなることを。仏陀の教えの核心はここにあり、私たちへの生きたメッセージ」と語る。

悩みや苦しみを抱えた時、自分を守るには「今、この瞬間を生きていることに気づくこと」
が何よりも大切という。

 

 

プラユキさんからのメッセージ

 
   

年間に3万人台の自殺者が出るという現代日本。一日に換算したら100人。未遂者はその十倍と言われる。今日一日だけでも約1000人が日本のあちこちで自殺を試みたことになる。

つい最近も私の寺に、(投身)自殺未遂一歩手前までいったという20代の女性がやってきた。不遇な家庭環境。十年間にわたる心を病んだ生活。そして自死寸前までのストーリーを聞くと、やはりこれまでに出会った自殺未遂者たちと似たパターンが浮きあがった。いい「出会い」ができていないのだ。「出会い」を仏教語では「縁」という。

「良き縁に触れ、良き縁となし、良き縁となる」

ブッダの8万4千本といわれるメッセージをざっくりとまとめると、そんな言葉に集約されるのではないかと最近思っている。他の仏教用語を用いれば、「善友、智慧、慈悲」。料理になぞらえれば、「買い物、料理づくり、提供」。美味しくて栄養のある料理は、私たちの生命力をイキイキと活性化する。同様に良き縁は、人に喜びと智恵をもたらし、共に幸せに生きる道をひらく。

上述の20代女性は自殺決行寸前に良き縁に触れた。自死を思いとどまり、私の寺に来ることになった。そして一週間、良き縁となす技を磨き、良き縁となる自信を得た。来たときとは見違えるほどの明るい表情で人生を再スタートした。

仏教でいう「縁」は、人との出会いだけにはとどまらない。環境と接触する際に生ずるあらゆる感覚体験、内面に生ずるさまざまな心の体験。それらすべてを「縁=出会い」とみなす。「瞑想」とは、そういったひとつひとつの「縁=出会い」を大切にし、苦しみの種にするのではなく、喜びと智慧に昇華させる、そんな心の育成法でもある。たとえどんな縁に触れようと、心「くさらせる(腐らせる)」ことなく、心「くさる(苦去る)」ことができるようになるのだ。

とりわけ「気づきの瞑想」は、コツさえちょっとつかめば、私たちの日常生活のひとコマひとコマにおいて実践できる。お料理も、お掃除も、会社での仕事も、子育ても、友人たちとのたわいない会話も、そっくりそのまま瞑想になる。それによって、悩み苦しみ、不必要なトラブルは減る。人間関係も良くなり、仕事のパフォーマンスも上がる。人生のクオリティをどんどん高めていくことができる。

今回、日本一時帰国中に伊勢という日本人の心の故郷とも言える土地に立ち寄り、ブッダのメッセージと瞑想法をお伝えできるご縁をいただくことになった。

尊きご縁に心より感謝し、みなさまとの一期一会の出会いを楽しみたい。(プラユキ・ナラテボー)

 

 

開催前の主催者からのメッセージ

 
   

「私には夢がある」の和田清華です。私がタイに瞑想を学びに行ったとき、山奥のお寺にいたのがプラユキさんでした。お寺の周りは深い森が広がり、大自然の中の静けさがあるのみ。夜も懐中電灯がないと右も左もわからないほどまっくらになります。まさに瞑想にぴったりの場所でした。

そこで21年間も瞑想の修業をしてこられたプラユキさんは、禅寺などで想像されるような厳しい僧侶ではまったくありませんでした。温和で、優しさと穏やかさに満ち、親しく語りかけ、心によりそってくれるような人でした。心がまったく動じない。その上、ものすごく受容性があるというか、あるがままを全部受けとめているんだなというのが、ひしひしと感じます。はじめてお目にかかったときには、「この人は仏様か?」と一瞬思ったほどです。オーラが見えるわけではない私にも、まるで金色の空気をまとっているようにさえ見えました。

今回、タイから日本に来られるということをお聞きして、ぜひ伊勢でもお話を聞く機会をもうけたい、そして瞑想を教えてくださいとお願いしました。快くOKしてくださいました。年の瀬だからこそ、心も大掃除してみませんか。瞑想って難しくなく、日常生活に取り入れることが可能です。私も日々瞑想しています。宗教にとらわれることなく、あくまで誰でも使える瞑想です。仏教を広める講義でもありません。ただ、瞑想という手段で多くの悩みは拭われるなと私は思うのです。

人の心はすぐに過去に行ったり、未来に行ったりと動いて、悩みや苦悩を引き寄せてしまうもの。そうではなく、「今、ここに」意識をしっかりと向けることをベースにした瞑想です。初心者の方向けのお話をお願いしています。まったく知らない方も、どんなのかなと興味をもたれた方も、お越しください。10人と少人数で行いますので、和やかな雰囲気になるかと思います。

 

 

仏教の瞑想とは?

 
 

釈迦(ブッダ)によってインドで生まれた仏教が、没後広まる過程で、大乗仏教と上座部(小乗)仏教にわかれた。日本の仏教は、大乗仏教の流れを汲んでいるもので、人のためにという「利他」の心をはぐくむもの。それに対し、タイで信仰されている上座部仏教は、出家仏教ともいわれ、出家した僧侶が瞑想などの修行することによって、自らの苦から解放されるというものだそうだ。

出家仏教なだけあって、お坊さんの修行方法というのがしっかり確立されている。つまり、修行の根幹である瞑想というものの、そのやり方が確立されている。

瞑想には主に2種類あり、能動的な「サマタ」瞑想と、受動的な「ヴィパサナー」瞑想がある。サマタ瞑想では、イメージで光を動かしてみたり、心の中でマントラ(例えば、ありがとうとか、アーメンという言葉)を唱えたりして、意識を集中させて雑念が出てこないようにするもの。一方、ヴィパサナー瞑想では、あるがままに自分の気持ちや思考や体の動きを観察するというもの。行動にラベリングしていく方法もあるけれど(例えば、今○○を見た、今○○のことを考えたと、無意識にしていることを言語化するやり方)、プラユキさんがいるスカトー寺ではもっと自然な方法で、ただ「今、ここに、いる」ということに気付いているということを意識する「気づきの瞑想」を教える。

その、ヴィパサナー系の「気付きの瞑想」というのは、文章でどんな感じかを説明するのはとても難しい。私はヴィパサナー瞑想に関する関連書籍を、タイに行く前にほぼ読んだにも関わらず、読んだだけではまったく何のことやらわからなかったから。「あ、この感覚ね」というのがわかりはじめたのは、実際に体験してからのこと。

とにかく、私たちの頭というのは、いろんなことを考える力があるようだ。その力がいきすぎて、妄想にまで発展するようなことも考えたりもするし、ある考えに固執しすぎたりもする。忙しい現代人は、何でも頭で考えるので、自分の心の声を静かに聞けなくなっている。大自然の中にいると、その静けさというのはえられるけれども、せわしない都会ではなかなか難しい。

それが、瞑想することで、今にちゃんといられるようになると、自分の声というものもしっかり聴こえてくる。心時代、癒しの時代の現代では、瞑想というのは、今後当たり前に広まっていくだろうな、と思う。(和田清華)

 

 

備考

 
   

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当日の様子。15名の参加者とプラユキさんの
心地よい対話のような講演&瞑想会でした


タイの山奥の寺で瞑想修業をするプラユキさん
3か月の研修のつもりが、気づいたら
出家してから21年がたっていた

早朝の托鉢の様子。祈りをささげる村の子供


瞑想をする講堂での写真。僧侶たちは一番前


日本と違い、タイの上座仏教は戒律が厳しい。
227の戒律にのっとり、修業にいそしむ


托鉢は毎朝行われる。タイでは托鉢は徳を積む
行為となるという考えがあり、みな熱心


プラユキさんの著書。読みやすくお勧め


監訳本。首から下がまったく動かないタイ人の
カンポンさんの瞑想の日々をつづる自叙伝


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